7月6日(水) ブライス・キャニオン〜ザイオン国立公園 AM6:00、起床。今日は出発がゆっくりで、朝食の時間が遅いので、しばらく日記を書く。 AM8:00、朝食。今朝は珍しく、ブリッタがパンケーキ(Pancake)を作ってくれる事になっていたが、実際に焼いているのは、ポールとリンダの2人だ。結果は「オー・ミゼラブル!」で片面は真っ黒焦げだ。切って分ける段になると、バラバラに崩れてしまい、ケーキの形は何処へやら。皆で蜂蜜をかけて食べはしたが、惨めな気分になった事は確かである。これなら、いつも通りのシリアルとバナナの方がよかった。
AM10:00、ブライス・キャニオンを出発するにあたり、昨日、私が質問しておいたことに、ブリッタが答えてくれた。 @ユタ州におけるモルモン教信者の占める割合は、2005年に70%であったものが、2008年には61%に減少している。これは、ユタ州の魅力に引かれての流入者が多くなっている事の現れであると考えられる。 A「ナバホ族居留地は、コロラド州を含めた4州に跨っているとガイドブックで読んだ記憶があるが」との質問には「コロラド州には跨っていない」との答えであった。私の記憶違いかもしれないが、そのような間違いを起こさせる理由はあった。それはアメリカの州はわりと単純に直線的に区切られているのだが、4州の境界線が十字に交わっている所は1か所しかない。それがフォーコーナーズ(Four Corners)である。コロラド、ユタ、アリゾナ、ニュー・メキシコの州境にあたる場所だ。 AM10:30、ブライス・キャニオンのビジター・センターで映画鑑賞。例によって、此処のキャニオンがいかに特異なものであるかを、歴史、気候、地質等を通して解説している。膨大な研究がなされてきたものを、たったの45分間にまとめる事も大変だなと思う。ましてそれを1枚の写真で表現しようと思う事は無謀なのだが。 AM11:15、ビジター・センターを出発。車は国道89号線から州道9号線に入って西へ走る。今日の走行距離は150kmと珍しく少ない。 AM12:30、ブライス・キャニオンとザイオン国立公園の標高差は1000m近くあるので、この2つの国立公園を繋ぐ国道89号線は、ザイオン国立公園に向かってなだらかな下り坂が続く。その路肩に、偽のパトロールカーが止まっているのをブリッタが見つけ、写真タイム。運転席には警官の姿をした人形が座っている。「運転手がスピードを出しすぎないようにとの考えから、この様なことがなされている」と言う。この車に書かれているSHERIFFとは、郡保安官という意味である。
AM12:40、昨日ブライス・キャニオンに来るときに寄った店(オーダーヴィレ:Orderville)でトイレ休憩。と言うことは、我々は暫く来た道を戻っている訳だ。 PM1:00、バッファロー(Buffalo)牧場で一時停車。道路沿いの水場にゆっくり歩いて来て、つまり、我々のすぐ近くまで寄ってきて水を飲んでいる。シャッターチャンスである。良い写真が撮れたかな?
PM2:30、ザイオン国立公園(Zion NP)に到着し、遅い昼食を取る。既に他のトレック・アメリカのツアーも来ていた。今日は4台、明日は5台の車が此処に立ち寄るそうだ。此処は人気のある公園であることが分かる。 これまで、キャニオン公園を幾つも見てきたが、ここの雰囲気は他と大分異なる。大きな岩があることは同じだが、今までは、上から峡谷を見下ろしていたが、此処では下から岩山を見上げている。つまり我々は広い谷底にいるのだ。緑の草木があり、バージン・リバー(Virgin River)と言う穏やかな川が流れている。
PM3:30、我々はチュービング(Tubing)と言う川下りをすることになった。これは、車のタイヤチューブ、つまり大きめの浮き輪にお尻を沈めて川を下っていく遊びである。15ドル也。
川の流れに身を任せて下って行きながら、何故か余りに人生に似ているので、いろいろ考えてしまった。 1時間半の川下りの間、多くの時間は流れに身を任せるだけでよいのだが、時折、岩場に妨げられて動けなくなる。一人で、もがくだけで何とか脱出できる時もあれば、近くに流れてきた人に助けてもらえることもある。しかし、近くに人は来ないし、幾ら一人でもがいても、チューブがビクとも動かない時が一度あった。
この時ばかりは、一度チューブから降りて、岸伝いに少し戻ってやり直すしか、脱出する方法がなかった。人生にも1度や2度はそんなことがある。 あそこに行くとヤバイ、と分かっていても、避けられなかったり、あぶない!と思った直前で流れが変わって、何事も無かったかのように進んでいったりすることもある。川の中では目に見えている障害物もあるが、目に見えない障害物の方が多い。お尻を深く沈めてのんびりしていたら、水中の岩にお尻をぶつけたりもした。
両端の浅瀬を避けて、川の真ん中を流れていたいのだが、川の流れはそんなに単純ではない。中央を流れていると必ず岸辺に押しやられるし、岸辺を流れていると次第に川の中央に押し出される。 我々はなにも持たずにチューブに乗って川下りをしたのだが、予め2m程の棒を持っている人もいた。岩を避ける時や避けきれなくとも、そこから脱出する時に有効だと思えた。川下りの時に有効な棒は、人生における信仰に当たるだろうか。 チュービングは道具が円形な為、必ずしも前を向いて流れる訳ではない。時には後ろ向きに、時にはくるくる回転しながら流れていくこともある。自分が何処にいるのか、何処に行こうとしているのか、分からなくなる時もある。川の流れは、人生の「時の流れ」に、かくも見事に例えられるものかと、つくづく感動を覚えずにはおれなかった。
PM5:00、キャンプサイトに戻って、テント張り。此処、ザイオン国立公園には、ホテルが無いことはないが、殆どがキャンピングである。それもグループであったり、家族であったり様々だ。人気がある公園のようで、大勢の人々で賑わっている。
PM6:00、無料のシャトルバスで公園内を一周。切り立った岩の絶景を見ながら1時間半。色の異なる岩が並んでいたり、眼前にそそり立っていたりする。そして夕日を浴びた岩は刻々とその色を変えていく。何処を見ても写真に残しておきたい衝動に駆られるが、切りがない。バスもガソリン車ではなく、プロパン使用のエコバスを運行しており、環境保護への配慮を感じさせる。
PM8:00、夕食。メニューはカレーライス。とは言っても日本のカレーとは違ってピンク色、薄味。今日のご飯は、先日のカレーライスと違い、上手に炊けていました。鶏肉とピーマン、マッシュルーム、人参等を入れた具の方は小生がじっくりと炒めた。おかげで好評のディナーになったが、私とアッキーは、ウエスタン人が白い目をする中、これに醤油をかけて。
PM9:00、インターネットを試みるも、アクセスができず諦めた。丁度、激しい雷雨が始まり、大急ぎでテントの中へ。 PM10:00、就寝。 7月7日(木) ザイオン国立公園〜ラスベガス AM6:00、起床。蟻がテントにウヨウヨ。それも私のテントだけに。ポールとブリッタは早朝のハイキングに出かけたが、他の3人はテントでゆっくりする。昨夜失敗したメールの送信を試みるが再び失敗。レセプションに行って理由が分かった。「使用者の欄にゲストの名を入れる」と聞いていたので、「自分の名前」を入れていたのが間違えで、「ゲスト(guest)」と入れるべきだったのだ。分かってみれば、「なーんだ、そんなことだったのか」と言うことだが、何度も試していると、こんなことで1時間位、すぐに過ぎてしまうのである。 AM8:00、朝食。シリアル、バナナ、紅茶。 AM8:30、ポメラを暫くたたく。日の出前は寒かったのに、太陽が出てくると急に暑くなって来た。 AM10:30、ポールとブリッタが早朝ハイキングから戻り、テントの収納。今日でテント生活が終わるので、収納に当たって、ツアーガイドのブリッタのチェックを受ける。つまり、「壊れたり、破けたりしている所が無いか」と言うことだ。私の場合は「テントの中の、砂やゴミを掃き出して、綺麗にして下さい」と言われて終わり。
キャンプ生活が今日で終わりとなると、何となく名残惜しくもなる。アメリカはキャンプ場が整備され、何処にでもあって、水(Water)と電気(Electricity)は設備されている。従ってテントを持っていけば、最低限の旅行はできるし、多くの人がそういう旅行を楽しんでいる。そして余裕のある人は大きなキャンピングカーを持っている訳だ。
AM11:30、キャンプ場での最後の昼食。と言っても出発前の慌ただしい中で、昨日の残り物(ご飯、マカロニ)を、トマトや、ピクルスで食べただけ。
AM12:00(AM11:00)、ユタ州のザイオン国立公園から、アリゾナ州の北西地域を通過して、ネバダ州(Nevada)のラスベガス(Las
Vegas)へ向けて出発する。車は州道9号線から高速道路15号線に乗って走る。今日の走行距離は320Kmである。 出発に当たり、ブリッタから時差の修正を告げられる。度々の時差修正だが、広いアメリカには4つの時間帯がある。 それは、 @ニューヨークを代表とする東海岸(イースタン・タイムゾーン:Eastern Time Zone)、 Aニュー・オーリンズを代表とする中央部(セントラル・タイムゾーン:Central Time Zone)、 Bグランド・キャニオンを代表とする山岳地帯(マウンテン・タイムゾーン:Mountain Time Zone)、 Cロス・アンジェルスを中心とする太平洋岸(パシフィック・タイムゾーン:Pacific Time Zone) の4つである。 更に、アリゾナ州とハワイ州では夏時間が採用されていない。そのため、例えばマウンテン・タイムゾーンのアリゾナ州にあるグランド・キャニオンとパシフィック・タイムゾーンにあるロス・アンジェルスは、夏時間の間は同じ時間帯になる、と言う複雑さを持っている。 PM1:00、ユタ州からアリゾナ州をかすめて、ネバダ州へ入る。ネバダ州に入るとき、ブリッタが書類を持って車を降りて行った。入国ならぬ入州の手続きらしい。他の州ではこんな事は不要であったはずだが。これも州によって法律が異なるものの一つなのだろうか。 PM3:00、ラスベガスに到着。ラスベガスとはスペイン語で、「高地の草原(meadow)」を意味する、とブリッタが教えてくれた。西部開拓の折り、西に向かっていたスペイン人が、広大な峡谷を走破した果てに見つけたのが、この地であったと言う。私はラスベガスの街を目の当たりにして、私の先入観との違いに驚いた。「砂漠に建つ大きなギャンブル場」と言うから、大きなビルが5、6棟建っているのかと思ったら、人口260万人の巨大都市になっていた。現在も建築中のビルがあちこちにあり、アメリカで最も急速に発展している街であると言う。 PM3:30、我々はまず、ホテル・リオ(Rio)のバフェ(Carnival
World Buffet)に入った。日本式に言うとバイキングだ。「此処には世界中の料理がそろっていて、何でも好きなだけ食べて良いんだよ。お寿司もあるよ」とブリッタが期待を抱かせるようなことを言う。私は「世界中の料理をゴージャスなラスベガスで食べられる。そんなことが分かっていれば、昨日の残り物で腹を膨らませた、昼食の量を減らしておいたのに」と後悔した。 バフェの入り口には、チケットを買う人の列が出来ている。しばらく並んでブリッタが支払ったレシートを覗くと、110ドルとなっていて意外に安い。5人分でこの値段なら、日本のホテルでのランチ・バイキングと変わらない。「テント生活の旅行代金しか払ってない人に、そんなに高額なランチを食べさせる訳が無いでしょ」とかってに納得する。「しかし此処はラスベガスだ。きっと豪華な料理に違いない」とまだ期待している。 やっと席に着いて料理を見に行くと、確かに世界中の料理がある。中華、イタリアン、アメリカン、フレンチ、ブラジリアン、そして日本料理。しかしその質は一見して期待を裏切るものでした。何処にでもある、ごく普通の料理で、寿司に至っては、ネタの種類が数種類に限られており、とても「これが日本の寿司です」とは言って欲しくないレベルの物でした。これならニュー・オーリンズやサンタ・フェで食べた寿司の方が、余程質量ともに上だ。驚きのラスベガスから、ガッカリのラスベガスへ。私の心中は、さながらジェットコースターに乗っているようだ。
バフェから出ると、大きなホテルのフロアは、人々が交差する事がやっとの空間を残して、全てギャンブル(こちらではゲームと言うらしい)の機器で埋まっていた。バーのカウンターにまでゲーム機が置いてある。ゲームをやりながらの一杯は、また格別の美味しさがあるのかも。スロットル・マシーンの前では、贅肉タップリのご婦人が真剣な顔をして、ゲームに打ち込んでおいででした。
PM5:30、ホテル(アレクシス・パーク:Alexis
Park)にチェックイン。プールを3つも備えた大きなリゾート・ホテルだ。今回はアッキーとの相部屋。カード型の電子キーを受け取って自分の部屋へ。部屋番号は2259番。フロントから自分の部屋に行くまでが大変。エレベーターもなく、ボーイも居ないので、2階までバッグ、リュック、ナップサック、ビニール袋等の全所帯道具を抱えて上がり、広くて迷路のような所から自分の部屋を探す。
数百メートル歩いてやっと自分の部屋番号を捜し当てた。ほっとしてカードキーを差し込むと、これがエラー。何回やっても緑のOKサインにならない。アッキーが「私がフロントに行って交渉して来るから、貴方は荷物を見ていてくれ」と言って下へ降りていった。ところが何分経っても戻ってこない。部屋に入ればクーラーが利いていて涼しいはずだが、今日の戸外の気温は107°F(42℃)迄上がっている。立っているだけで気が遠くなりそうだ。 アッキーがフロントに行ったきり30分も戻ってこない。私は廊下に座り込むしかなかった。やっと戻ってきたアッキーは部屋番号の変わった2255番のカードキーを持ってきた。彼が言うにはフロントの対応が信じられないほど悪かったらしい。ともかく、やっと部屋に入ることが出来、シャワーを浴びた。 それにしても、こんなに暑くてはリゾートとは言え、戸外活動はプールで水遊びする以外は無理だ。外に出られるのは、日没後の夜だけだ。だからラスベガスの映像は何時も夜のシーンになるわけだ。日中は涼しいホテルの中で、ギャンブルに興じる事位しか、やれることが無いであろう。とても、まともに人生を思索出来るような所ではない事は確かだ。 一段落して、アッキーとしばし懇談。彼は「高校卒業までマレーシアにいて、大学からオーストラリアで生活している。国家公務員だが、政府のことは信用していない」と言う。また、今回のツアーに参加してみて、「ユース・ホステルなら良いが、テント生活とジャンクフードは、もうこりごりだ」と言う。そう言えば彼は洗面所でも、神経質に手を洗っていた。私から見れば「ずいぶん丁寧に洗っているな」と思わせる洗い方だ。そして洗面所から出て行く時は、洗った手のひらは使わず、肘や足でドアーを開けていた。確かにこんな神経質な人には、キャンプ生活は厳しいと思う。 PM7:45、「夜のラスベガスを見学する」と言うことでホテルのロビーに行くと、なんと「リムジン:Limousine」のお出迎え。リムジンなど普段の生活では滅多に見ないし、まして乗ったことは一度もない。促されるままリムジンに乗って何処へ行くのやら。何せ初めてのラスベガスで東も西も分かりません。車内は運転席の後ろが、広くなっており、我々5人がゆっくり向かい合って座れるので、話が弾む。それだけのことで、特に乗り心地が良かったわけではない。運転手がドアーの開け閉めをしてくれる分、気分が良いだけだ。
それにしてもテント生活から、いきなりリムジンとは。私は前もっての知識もないから、汚れたスニーカーとナップサックの出で立ちだ。ツアーガイドのブリッタは、いつもとは違う、夜のラスベガスにふさわしく、背中が大きく露出している装いで来ており、行き交う男が時折振り返って見ていく。 最初に行ったのは、フリーモント・ストリート・エクスペリエンス(Fremont
Street Experience)と言う、映像が次々と流れるアーケードだ。音と光を思い切り派手にして、少しぐらいの理性なら、吹き飛ばしてしまう位の効果がある。此処がラスベガス発祥の地だと言う。
次に行ったのは、「ウェルカム・ラスベガス(Welcome Las
Vegas)」と大きく書かれた看板が立っている通りだ。なぜかこんな所が人気になっていて、次々に人が来ては、看板を背に写真を撮っていく。ラスベガスに来たという証拠になるのだろう。エルビス・プレスリーの格好をした男が数人居て、記念写真の味付け役になっている。もちろんチップが彼らの目的だ。同様に肌をぎりぎりまで露出した格好の女性を両手に、ご満悦顔で記念写真に収まっている男もいた。
最後はベラッジオ・ホテル(Bellagio)。北イタリアのコモ湖を模した池で行われる噴水ショー(Fountain of
Bellagio)を大通りの歩道から見学。音楽に合わせて大がかりな噴水が、様々に変化する。「おお、そこまでやるか!」と感動の一時ではある。ラスベガスはエンターテインメントの世界をこれでもかと追求している様に見える。これからも、その方向は変わらないであろう。
私とアッキーは、すっかり満足し、今日はこれで終わりにして帰ることにした。ポールとリンダは他のショーを見に行くという。確かに好きな人にはたまらない所だろうが、切りがない。私にはもう十分だ。ベラッジオ・ホテル迄はリムジンであったが、帰りはタクシーで帰ることに。運転手はインドネシア人。アッキーがマレーシア人だと分かると、マレー語で一言、二言。アッキーは「簡単な会話なら今でも出来る」と言う。 PM10:00、ホテル着。 PM10:30、就寝。 7月8日(金) ラスベガス AM6:00、起床。洗面所へ行きたい所だが、アッキーが先に入っていて出てこない。こう言う時は、ホテルよりキャンプ場の方が、不特定の人数に対応できるので、我慢することはない。変なところでキャンプ場の優位性を発見したのだが、本人にとっては、笑い事では済まない事件なのである。この時、私がどういう行動に出たか、想像にお任せするが、朝一番の膀胱には紙コップ3杯分の小水が貯まっているという事を、初めて知ることになった。膀胱をいたわって大切にせねば。ヤレヤレ! AM7:00、アッキーが街へ出かけた。私はラスベガスのガイドブックを見るが、特に行ってみたい所が無い。 AM8:30、ホテル内で、バイキングの朝食。久しぶりに沢山食べようと思うが、そんなに食えないものだ。15ドル也。 AM9:30、日記を書く。涼しいし広い部屋だし、寝てしまいそうだ。 PM1:00、昼食の用足しに外へ出たら、暑いこと!!今日も40℃を越えているのだろうか。こんな時に、出かける人の気が知れない。 PM2:00、部屋でポメラに向かう。 PM3:00、部屋の掃除に係りの婦人が来る。 PM5:00、アッキーが戻ってきた。こんな暑いときに何処を歩いてきたのか。安い物があったと言って、シャツ、ズボン、靴下等を見せてくれた。オーストラリアで買うよりずっと安かったそうだ。 PM5:30、リンダが明日、ロス・アンジェルスには行かないので、今日でお別れだ。そこで、中華レストランで最後の会食をすることに。リンダには、1歳年長の兄がいて、今は軍隊を引退し、ユタ州に住んでいる。その夫婦が明日、ラスベガスに会いに来るのだそうだ。 リンダがテキサス州のバルモヘア州立公園のプールで倒れた時は、この先どうなるかと心配したが、だんだん持ち直して、元気になったことは幸いであった。80kg程の身体から発する声「オー、イエー」は、豪快で日本人の私から見ると、若干品がない。笑うときも「イッヒッヒ」となるが、それも慣れてしまった。 この旅行中、リンダ(59才)とポール(62才)は何時も一緒だった。まるで夫婦のように。アッキーは、自由時間になると何時も単独行動。私はブリッタも含めて、誰とも等距離外交。と言うより、言葉の壁があって必要以上に親密になることはできない。こんな小さなグループでも、25日間一緒にいると、それぞれの性格は見事に現れてくる。 PM8:30、ホテルへ帰ってくる道中でブリッタが言うには「仕事柄、自分が言うのは変だけど、私はラスベガスが嫌いです。失業率は12%にもなるのに、まだ拡大しようとしている。完全にバブルです。しかも水のない砂漠で、ふんだんに水を使い、電気を使い、狂気としか思えません。私は趣味のロッククライミングで5回、仕事で10回程此処に来ています。最初の2、3回は感動しましたが、今は好きになれません」と言っていた事が心に残った。私もそれがまともな考え方だろうと思う。 PM9:00、アッキーは明日のチェックアウトの準備でパッキングをし、私はシャワーを浴びてベッドへ。 PM10:30、就寝。 7月9日(土) ラスベガス〜ロス・アンジェルス AM6:00、起床。 AM7:00、ホテルのレストランで、昨日と同じバイキングの朝食。15ドル也。 AM8:00、荷物のパッキング。 AM9:00、ホテルのロビーで、今回のツアーに関するアンケートを書かされる。ツアーガイドは、「エクセレント(Excellent)」、他は「グッド(Good)」にチェックを入れた。 ロビーには、浅黒い皮膚をして、黒い背広に身を包んだ男が大勢いた。私が気になって声を掛けると、「アムウエィ(Amway)の研修でカリフォルニアから来た、メキシコ系アメリカ人だ」と言う。英語は流暢ではなく、スペイン語の方が良いようだ。私が気になったのは彼らの首の短さである。その首にネクタイを締めているから、一様に窮屈そうで、ハッキリ言うと彼らにネクタイは似合わないと感じたのだ。それにいくら仕事だからと言って、このクソ暑いラスベガスで、黒のスーツは如何なものだろう。 AM10:00、リンダとお別れの握手をして、今回のツアー最後の地、ロス・アンジェルス(Los
Angeles)に向けて出発。車は高速道路15号線を南西方向に走る。今日の走行距離は約560Kmである。ロス・アンジェルスもスペイン語で「天使の町」と言う意味だそうだ。するとアンジェルスは英語で言う「エンジェルズ」かな?ラスベガスの高層ビル群を走り抜けると、そこはすぐ砂漠である。ラスベガスが砂漠の中にあることがよく分かる。 AM10:45、カリフォルニア州に入ると、そこは「モハーベ砂漠(Mojave
Desert)」であった。ラスベガスの砂漠と続いている様に見えるが、二つはどう違うのだろう? AM11:00、トイレ休憩。車内はクーラーが効いて涼しいが、いったん外にでると息詰まるような暑さだ。ハーゲンダッツのアイスクリームを1本。3.5ドル也。ブリッタから「先日集めた70ドルの内、33ドルずつ返金します」との事。精算した結果がそうなったようだ。誠実にやってくれていることを感じる。 旅行を終えるに当たり、私が「チュービングの時の写真が無いので欲しい」と言うと、ブリッタが撮った写真を、ポールのパソコンを経由して、私のメモリー・スティックに移してくれた。このうちの何枚かは、旅行記に使わしてもらうことになると思う。大いに助かります。 PM1:00、ハンバーガー店(Big
Boy)でランチ。マクドナルドと似たような店だが、こんなに大きな店は少ないだろう。そして丁度食事時と言うことを考慮しても、これ程お客で混み会っている店を私は知らない。厨房で働いている人だけで10人以上居たと思う。私とポールは、チーズバーガーとコーヒーを頼んだ。4ドル也。お味はまずまず。ハンバーグとしては、美味しい方だ。ベジタリアンのブリッタは近くのスターバックスで、卵と野菜のサンドイッチを食べ、アッキーは、「腹が空いてない」と言って何も食べなかった。 PM3:00、ロスの町に入る。こちらではロス・アンジェルスをロスとは言わない。ロスが頭に付く都市は、ロス・アラモス、ロス・インディオス(Los Indios)と他にもあるからだろう。ロス・アンジェルスの頭文字をとって「エル・エイ(L・A)」と言う。 車の数がにわかに増加し、4車線、5車線となっていく。TVで、カーチェイスが見られるのは、この辺の車道かな等と思いながら、車外を見ている。 エル・エイは広すぎて、何を見せてくれるのだろうと案じていたが、そこはツアー・プロにとって腕の見せ所。要所を絞って案内してくれました。 1、広大なカリフォルニア大学・ロス・アンジェルス校(UCLA)を、車窓から見学。 2、落ち着いて広々とした高級住宅地のビバリーヒルズ(Beverly
Hills)は、さながら東京の田園調布か。
4、大きな椰子の木(Palm
trees)の並木道になっている、パーム・ストリート。映画のシーンにも出てくるらしい。
5、ハリウッドブルバード(Hollywood
Blvd.)沿いにある中国寺院風の建築物はグローマンズ・チャイニーズシアター(Grauman’s
Chinese Theatre)。此処には映画スターの手形、足形やサインがあることでも有名。あちこちにスターのそっくりさんが居て、記念写真を撮っている。
6、サンセット通りを走って、山の中腹に掲げられた「HOLLYWOOD」の大きな文字とロス・アンジェルスの街を同時に見渡せる丘へ。L・Aの街がスモッグに霞み、太平洋は見えない。
PM7:00、1時間近く車を飛ばして、ロス・アンジェルス空港近くのホテルへ。さながら東京から成田まで走ったような感じ。 PM8:00、ホテル・ハシエンダ(The Hacienda
Hotel)にチェックイン。お世話になったブリッタにチップを渡してさよならだ。ビジネスとは言え、25日間も苦楽を共にすると名残惜しくもなる。電子カードのキーをもらって入室すると、既に相部屋の人がベッドに横になっていた。聞くと「イギリスから今着いたばかりの男子高校生。夏休みを利用しての旅行で、明日から28日間のアメリカ横断ツアーが始まる」と言う。私は今終わったばかり。終わったばかりの男とこれから始まる男の顔合わせ。トレック・アメリカも味な組み合わせを考えるものだ。考えてそうなったのか、無作為に組み合わせているのかは、分からないのだが。 PM8:30、高校生はもう済んだというので、一人で夕食を食べに出る。近所に和食(Japanese
food)と書いた看板があったので入ってみた。従業員に日本人かと聞くと「韓国人です」と言う。よくこの手の食堂に出くわす。日本食に人気が出ているので、「ジャパニーズ」と表示してはいるが、実は韓国人がやっているケースである。決して悪いことではないが、我々日本人からするとやはり味が違う。 メニューと写真を見比べて寿司を頼んだ。「しばらくお待ち下さい」と言われて待っていると、「寿司用のご飯が無くなってしまった」と言う。そんなことってあり!?私は気を取り直して、天ぷらうどんを頼んだ。うどんはどう見てもインスタント臭いが、天ぷらは揚げたてだ。和食に飢えていた私は、これでも十分美味しく感じられた。量が少なかったので「同じ物をもう一つ下さい」と言うと、きょとんとしたような顔で「同じ物をもう一つですか?」と確認された。2食分で13ドル也。 PM9:30、妻に最後の日記を送る。35日間に19回送ったことになる。自分で言うのも何だが、頑張ったと思う。キャンプ場では、しばしばシグナルが弱くて接続不能であったり、自分が疲れてメールが出来なかったり、ラスベガスのホテルでは、「15分間で5ドル」と、法外なインターネット料金を提示されて接続を諦めたり。メールが出来なかった理由は様々であった。 相部屋のイギリス人高校生が、「パソコンを借りても良いか」と言うので、「勿論いいよ」と言って、貸してあげた。このホテルでの接続料は無料でした。 PM11:00、シャワーを浴びて就寝。 7月10日(日) ロス・アンジェルス〜成田 AM7:00、起床。相部屋の英国人高校生が、出発の支度をしている。「君は、ヘッドライトを持っているのか?」と聞くと、「持っていない」と言うので、「中国製で、あまり良い物ではないが君にあげよう」と言い、新しい電池を入れて渡したら、とても喜んでくれた。 AM8:00、朝食を取ろうとロビーに降りていくと、これからツアーに出発する格好の大勢の若者が居た。その中に昨日分かれたブリッタが居るではないか。声を掛けると「今、ボスと打ち合わせ中なんです」と言って、40才位のボスに紹介してくれた。そして「アマンダも居ますよ」と言って、ヤング・グループのツアーガイドを連れてきた。最後に会ったのは何処だったか、すぐには思い出せないが嬉しい再会である。(調べてみたら6月24日、サン・アントニオのキャンプサイトであった) 彼女は4日前にL・Aに到着しているはずであるが、今日からまた出発だと言う。学生が夏休みで、ツアー会社としては、今がかきいれ時ではあろうが、なんとハードな。しかしアマンダは、何時会っても100%全開の笑顔だ。「若いとは言え、あのエネルギーは何処から来るのだろう」と、不思議に思う。そして「アメリカを車に乗って一度横断しただけでヒイヒイ言っている自分に比べ、彼女はこの夏、何度アメリカ大陸を横断するのだろう。しかも、大勢を引き連れて!」信じられないパワーの持ち主だ。 朝食はサブウェイでサンドウィッチを調達し、部屋に置いてあるコーヒーを入れて食べた。その後、パッキングをしてチェックアウト。空港まではホテルから無料のシャトルバスが出ていて、ホテルの宿泊客は、機長、キャビン・アテンダント等も、皆が利用している。シャトルバスに乗ると、ほんの数分で空港に到着し、デルタ航空の5番ゲートで降りた。これなら楽だ。 空港の入力機器の前に行って、予約番号を入力し、パスポートを所定の場所に置いて、磁気を読み取らせると搭乗券が発行される。次にカウンターで大きな荷物を預け、セキュリティー・チェックに行く所に、黒人の女性係員が居て、搭乗券をチェックしていた。皆はそのまま2階のセキュリティー・チェックに進むのに、私には「ここを降りて右に行くように」と言う。「変なことを言うな、荷物を預けた所でも、この後は上の階に行って下さいと言われたのに」と思いながらも、現場の係員の指示に従うしかない。 下に降りて行っても右に曲がるような所は見当たらない。仕方がないので前方のドアーを開けると、警報が鳴りだし、警備の婦人が飛んできた。そこは空港の整備場であった。警備員は「そこで何をしているのか?」と言うので「上の係員に下へ行けと言われたので来たのです」と言うと、私の搭乗券をまじまじと見て「2階に行きなさい」と言う。「あの黒人女め!人をバカにしやがって!」 怒りを抑えて再び階段を上がり、その黒人女の所に行くと、又しても「下に降りて行くように」と言うではないか。私は少し気色ばって「セキュリティーの人は、2階に行くように言ったぞ」と言うと黙って通してくれた。いったい何だったのか?言葉が出来れば、問い詰める所だが、そこが悲しいかな、喧嘩するだけの語彙を持ち合わせていない。私は興奮を抑えてセキュリティー・チェックに並ぶしかなかった。それにしても「これと似た事例が、何処の国に行っても一度はある」と言うことが、不思議だ。 AM11:00、巨大なロス・アンジェルス空港だから、さぞかし沢山の土産店が有るだろうと期待していたら、見事に肩透かしを食らわされた。セキュリティー・チェックも終わり、後はお土産を買うだけだと進んでいくと、そこには登場口が並んでいるだけで、土産店らしき所は何処にも見当たらない。ただ日常必要と思われる、新聞雑誌、それに少しの食料やクッキー類が置いてある店が、1軒だけしかないのだ。こんな空港も珍しい。ましてや、L・Aはアメリカの西の玄関口である。そう言えば、ニューヨークのJFK空港も、意外なほど地味であった事を思い出した。と言うことで、お土産は、何時もと変わらぬチョコレートになってしまいました。 PM0:40、デルタ航空283便は、定刻に離陸。しばらくウトウトしていた様で、気が付いたら水平飛行になっていた。つまりそれほど揺れが少ないと言うことだ。298人乗りのエアバス(Airbus)A330は、乗り心地良し。それでも気流が悪い所では揺れました。 PM6:30、そろそろ「旅のまとめ」を書く時間が来たようだ。その都度感じたことを書いてきたので、改めて書くことも無いように思うが、 何処へ行っても不思議がられるのは、「奥さんはどうして一緒に来ないのか」と言うことだ。確かに今回のツアー参加者の中でも妻帯者は私一人で、他の人は離婚経験者も含めて独身である。ニューヨークで会ったブラジル人女性も、「一人で1ヶ月も旅行するなんて考えられない」と言っていた。皆から不思議がられる我が家は、一体どういう家庭なのだ。特に思い当たる事はないが、私のしたいことを自由にさせてくれている妻に感謝したいと思う。 今回の旅行では、何度もコロラド川に出会った。コロラド川はロッキーマウンテンに源を発し、その延長は2330Km(札幌〜鹿児島)に達する。見学したコロラド川の流域には、デッド・ホース・ポイント(ユタ州)、グレンキャニオン・ダム(アリゾナ州)、グランド・キャニオン(アリゾナ州)があり、ラスベガスの近くにはフーバーダムもある。 そして、その支流にはサン・ファン川(グースネック州立公園)、バージン川(ザイオン国立公園)があり、サン・ファン川の支流にはアニマス川(コロラド州、ドゥランゴ)が見られた。こう見てくると、コロラド川の果たしている役割は計り知れない事がわかる。しかしコロラド川の下流は、ほとんど干上がった状態で、メキシコのカリフォルニア湾に注いでいると言う。 アメリカは広大な国だ。そして色々な顔を見せてくれた。だからユナイテッド・ステーツ(United States)、合衆国なのだ。ヨーロッパ人と黒人だけではなく、メキシコ人を中心とするスペイン語圏の人々、中国人を中心とした東洋人、そして忘れてならないのは、ナバホ族を中心とした先住民族の人々。気候にも大きな変化があった。同じ時期であるにも関わらず、44℃から1桁台まで。短パンからモモシキまで、用意して行ったものは全部使った。 アメリカに比べたら日本は国全体が1つの箱庭みたいなものだ。当然人口密度は高く、集約農業を営み、盆栽や手工芸品等の細かい仕事を得意とし、それが日本民族の特徴にもなって来た。これは国土、環境がそのように作って来たとも言える。そしてこれは善し悪しの問題ではなく、事実認識の問題である。今後とも国土を広げて環境を変えることは出来ないし、無理やり変えようとすると戦争になってしまう。 日本は置かれた環境の中でどう生き抜いていくのか、知恵を出し合う事が求められる。日本人は物事の白黒をはっきり言わず、本音と建前を使い分ける。この日本独特の文化は、狭い国土の中で大勢が仲良く暮らして行く知恵だったのかもしれない。今回の旅では、そういう日本の文化に興味を持ってくれているナバホの少女に出会った。「日本の文化もあながち見捨てたものではない」と言うのが今回の旅のお土産である。 そして今回の旅行記を綴るに当たり、ポメラが大変役に立ったこと。特に今回の旅行は移動時間が多く(5000マイル、約8000Km)、その時間にポメラが使えたことは大変有効であった。幸か不幸か英語が堪能ではない私は、英語圏から来た人々が話す、ナチュラル・スピードに付いていけないので、車内ではポメラに専念できた。何よりもポメラの構造がシンプルに出来ており、相当揺れてもマウスが飛ぶという事が無かったのである。ポメラの宣伝になりそうだが、本当に助かりました。 7月11日(月) 成田 PM4:00、ロス・アンジェルス空港を離陸してから11時間のフライトを経て、成田空港に安着。ロス・アンジェルスよりも高温高湿度であると感じる中、妻と92歳で介護Uの義母が、車で出迎えてくれた。 |